2012年02月06日
ハワイ国際結婚に対する親の意見
ハワイ国際結婚について、親たちはどのように考えているのか、調査されたものを見つけました!最も多いのは日本の家族だけが反対しているケースがなんと47%、両家ともに反対は4%の場合を含めると、日本人家族の半分以上が反対していることになります!パートナーの家族の反対は10%にとどまっていることから、いかに日本の親の多くが反対しているかが分かります。反対する理由の1位は、相手が外国人というだけで反対とのこと。これは理由にならない理由という感じですが、たしかに相手の人に会いもせずに拒否反応を示す親はいると思います。とはいえ、会ったら即OKというケースも少なくないので、あきらめずに外国人の彼親を会わせる機会が訪れるのを待ちましょう。私はハワイのEM CLUB という結婚紹介所に登録していますが、親にはまだ内緒にしています。結婚できることになったら、なんて報告しようかな?!
2012年01月20日
ホノルルの日系サロンで美容師
何回か観光でハワイに行っているうちにハワイの魅力にすっかりとりつかれてしまった。今ハワイ移住方法を検索中。インターネットで調べていたらホノルルの日系サロンで美容師をいうのがあった。日本でも有名な美容サロンのハワイ支店とあるがもしかしてワイキキプリンスホテルの下にある山野愛子美容室?プログラム終了後のビザサポートの可能性ありってことはもしかしてそのままハワイに住めるって事?でも英語できないしなんの資格もないない私が応募してもよいものだろうか迷っている。レジぐらいならできそうだからさっそく資料を請求してみようと思っていす。うまくいけばそのまま永住なんてこともできるかもしれない。世の中そんなに甘くないか。^_^;
2011年11月30日
ラハイナヌーン
皆さん突然ですが「日蝕」とか「月蝕」は誰でも知っていて辺りが暗くなったりする現象なので誰でも知っていますよね!でも「ラハイナヌーン」って耳にしたことありますか?ラハイナヌーンとは「残酷な太陽」という意味で、熱帯地方で年に2回起こる現象で、太陽が天頂を通ることで光が真上から差し影が無くなってしまうというものです。ずっと気になっていたのですが、ちょうどハワイフラ留学中で、その「ラハイナヌーン」にここオアフで島で5月と7月に起きたのです。今年のホノルルでは5月は26日12時26分と、7月は15日の12時37分でした。証拠の写真を撮ろうと思ったのですがちょっと無理でした。同じオアフでも反対側のカネオヘでは起こる日は違います。
2011年11月15日
冬休み
娘をハワイ留学させています。そろそろ冬休みで日本に帰ってくるので今から楽しみにしています。
でも娘を一人海外へ行かせるのは親としてとても心配ですね。私も何回もいっているハワイなので安心かとおもったがそんな事はありません。今年なんかもう4回も行ってしまいました。毎回ホテル代も馬鹿にならないのでいっその事コンドでも買おうかと思っています。そうすれば娘が寮にいれない時にも利用する事ができるので一石二鳥。寮は管理もキチンとしているし良いのだけれど学校が休みのたびに出なければいけないので大変といえば大変おまけにホリデーも寮は閉まりますので又出されるはめに。こういう事なら始めからホームステイにしておけばよかったと思っています。
でも娘を一人海外へ行かせるのは親としてとても心配ですね。私も何回もいっているハワイなので安心かとおもったがそんな事はありません。今年なんかもう4回も行ってしまいました。毎回ホテル代も馬鹿にならないのでいっその事コンドでも買おうかと思っています。そうすれば娘が寮にいれない時にも利用する事ができるので一石二鳥。寮は管理もキチンとしているし良いのだけれど学校が休みのたびに出なければいけないので大変といえば大変おまけにホリデーも寮は閉まりますので又出されるはめに。こういう事なら始めからホームステイにしておけばよかったと思っています。
2011年07月12日
結婚式
最近友達がハワイリゾートで結婚式をあげた。この熱いのに海辺で結構式なんてよしてくれと思ったけど、とっても素敵だった。思ったほど熱くなかったし。風がここちよく、ちょうど日暮れにさしかかっていて夕日がきれいで、芝生の上でも立食パーティもきもちがよくてピクニック気分! 花嫁さんは綺麗だったし言うことなし。 最近リゾートで結構式をあげるカップルが増えている。式場場の中では味わえない気持ちのよさわ言葉では表せない。ひとつ気をつけてほしいのは、靴のヒールが土にずぶずぶと入ってこまること。 平たい靴がおすすめ、おしゃれじゃないけどね。ピンヒールなんか履いても結局ヒールが全部土に入って靴が汚れますよー。海で結構式ならビーチサンダルがおすすめです。
2011年05月20日
朝の散歩
先週家族ともどもタートルベイリゾートホテルに行ってきた。
朝の散歩コースの素晴らしさ、林を潜り抜けて海に出、海亀とのご対面、亀の朝食らしいです。
岩を盛んに突っついています。優しい朝の日差しと海からの風、どこまでも続く白浜の散歩ほらほら見てー!くっきりと足跡を付けて..........一番乗りは良いなー、白い砂浜に足跡が続きます。礒カニがネグラから顔を出しています。
ごめんね脅かして!林の中に入りひんやりとした空気の中爽やかです。鶯が鳴いています、日本のどこかにいるような錯覚さえ感じます。しかし、日本では絶対この体験はありえない爽やかな朝でした。
ハワイというと皆ワイキキにいくけれどたまにはこんな体験もいい。
朝の散歩コースの素晴らしさ、林を潜り抜けて海に出、海亀とのご対面、亀の朝食らしいです。
岩を盛んに突っついています。優しい朝の日差しと海からの風、どこまでも続く白浜の散歩ほらほら見てー!くっきりと足跡を付けて..........一番乗りは良いなー、白い砂浜に足跡が続きます。礒カニがネグラから顔を出しています。
ごめんね脅かして!林の中に入りひんやりとした空気の中爽やかです。鶯が鳴いています、日本のどこかにいるような錯覚さえ感じます。しかし、日本では絶対この体験はありえない爽やかな朝でした。
ハワイというと皆ワイキキにいくけれどたまにはこんな体験もいい。
2011年04月18日
ホノルル雑報_ホノルルにお城が?
ホノルル長期滞在のエクスパート奥山さんおレポートを紹介したいと思います。
ハワイには多くの人が足を運んでいるので「ホノルルに日本のお城があることを知っている」と云う人が多いと思います。ところが「知らない」と云う人も結構いるのです。オアフはあまり大きくない島であるとはいえ、ホノルルを離れたローカル地域に行けば目に触れることも少ないのですが、このお城はホノルルの街中に聳え立っているのです。それも、アラモアナ・ショッピング・センターに程近い場所に・・・
実は、私もロングスティを始めた数年前に街を歩いていて気付きました。そのときには、 お寺や神社もあるハワイなのだから、お城があってもおかしくはない。しかし待てよ!それにしてもお城というのは単に珍しいというだけでなく何か曰くがあるのかも知れない、と思いました。そして近づいてよく見るとそれが、なんとキリスト教会なのです。天守閣の下方白壁には十(クロス)の字が掲示され、入口には「マキキ聖城キリスト教会」とありました。
その後しばらくしてこのお城に行く機会がやってきました。知人の友人がこの教会で牧師をしていて、信者には日本人が多く在ハワイ日系人だけでなく来布日本人旅行者やロングステイヤーも歓迎。もちろん非クリスチャンも・・・で楽しく、友人づくりに良いのでは、と云う話です。持ち前の「何でも知ってやろう」精神を刺激された私は、早速妻と日曜礼拝に出かけて行きました。
クリスチャンでない私たちは、礼拝など云ってもどのように振舞ったらよいのか皆目見当がつきませんでしたが、教会では受付で歓迎のレイをかけられ、礼拝堂では皆さんに紹介されるなど、とてもフレンドリーな対応にすっかり打ち解けました。その後も居心地がよいので何回か通ううちに顔見知りの人も増え、ロングスティ・ライフの充実に役立っています。
一方、肝心の「お城の由来」については、接した人たちから聞きだすチャンスがなく少
々焦りだしていました。ところが、そのことを見透かしたイエス様が機会を作ってくださったかのように、黒田牧師と話すチャンスが訪れました。今年元旦のイベント「餅つき会」に参加して、無心にはしゃぐ子供たちに混じって雑談を交わすなか、牧師に「お城のこと」を質問したところ、牧師は「よく聞いてくれました」とばかり丁寧に話を聞かせてくれたのです。
以下は牧師から聞いた話と、借りた本を基に記しますが、一見お金持ちが道楽か酔狂で造ったのではないかと思ってしまいそうなこのお城には、尊い歴史が秘められていたのです。
マキキ聖城キリスト教会は、1904年に奥村多喜衛という牧師が創設しました。当時の名前は「マキキ教会」といいました。
奥村多喜衛は1865(慶応元)年、土佐藩士奥村又十郎任道の長男として高知県安芸郡に生まれました。藩主山内容堂の諮問役で漢学者の父から幼い頃から武士の教育を受けて育ちました。自由民権運動家で後に衆議院議長となる片岡健吉が親戚であったことなどから多喜衛は政治思想とキリスト教の両面で大きな影響を受け、1888年23歳で大阪教会で洗礼を受けました。1890年同志社神学校に入学、在学中からハワイの日本人伝道
の必要性を聞き、4年後卒業するとすぐに単身でハワイに渡りました。
ハワイでは、キリスト教の牧師として伝道に専念するかたわら、日本人社会の問題についていつも目を向け関係者と粘り強く話し合い行動して行ったのです。充分な教育を受けていない日本人移民の子供たちのために着任翌年には日本人幼稚園を開設、1896年には日本人小学校を開設しました。また同年に遠隔地や他島の子弟たちのために寄宿舎「奥村ホーム」を開設します。ハワイ日系人で初めてエール大学大学院に進んだのも奥村ホーム1期生であった等ハワイ社会に貢献する人材を多く排出しました。
さらに奥村は、1898年頃から日本人暗黒街移転運動にも乗り出します。ホノルルにペストが流行し、市街を焼き払おうとした策が裏目に出て、折からの強風に煽られ大火となり多くの人が命と家を失うという事件が起きましたが、その際日本人病院の必要性に気付き、現在のクアニキ病院の前身日本人慈善病院を開設しました。
また奥村は、1898年ハワイがアメリカの属領になったことから日本の文部省の教育方針から忠君愛国的教育を廃し、アメリカ公立学校の補修校的日本語教育に変換するためホノルル日本人小学校を布哇中央学院と改称します。また、天長節など日本の祝日には日本人の子供だけがハワイの公立学校を休み、日本人学校で拝賀式などに参加していたことなどを改め「ハワイの日系人はアメリカ人である」という行動をしなければアメリカにおけ
る対日感情が悪くなることを日本人社会に訴えます。
奥村は「売国奴」「非国民」の汚名を着せられつつも「排日予防運動」に奔走します。
(1) アメリカの生活習慣に同化する。
(2)市民権を取り忠実なアメリカ市民となる。
の2点を認める人たちから署名を集めるため各層の人々と会い全島をまわります。そして、それを大統領や議員に送付して排日運動の沈静化に努めました。やがて奥村の活動は成果を挙げはじめますが、彼は運動の第2弾として「日系市民会議」という組織をつくり2世の養成に力を注ぎます。
そうした中、あの真珠湾の奇襲攻撃に始まる第2次世界大戦では、ハワイにいる日本人、日系2世はアメリカの敵国民として扱われて辛酸を舐めます。ここでも奥村は「ハワイの日本人・日系人はアメリカ人」であることをアメリカ政府・軍に説き、日本人全員のアメリカ本土収容所送りを思いとどまらせます。
他方、日系2世たちは「アメリカ市民」であることの証を示すべく積極的に志願兵となり第100大隊や第442部隊の兵士としてヨーロッパ戦線で勇敢に戦いました。特にイタリアのカシノの激戦では出兵1300名中生存者275名だったということです。このように最大の犠牲者を出しながら大きな勲功を挙げたことで、やがてアメリカ全土で日系人が認められるようになり、本土収容の日系人の早期解放にも役立ったといわれています。
そして、その後ハワイの日系2世たちは、最高の武勲によって得た報奨金を元手にして上級学校へ進むなど、リーダーとなるべく努力した結果、現在の社会的地位の高い日系3世、4世へと続いているのです。このように見てくると、奥村多喜衛の長年の努力が無かったら、現在のハワイの日本人・日系人はアメリカの中でどのように見られ、どのように扱われていたでしょうか?
それにしても、奥村が苦闘していた時代に日本国は何をしていたのでしょうか?奥村が帰国するたびに渋沢栄一他の有力経済人は活動に理解を示し経済的支援をしていたようではありますが・・・
また、第2次世界大戦によってハワイの日本人が、日本人・日系人であるが故に舐めた辛
酸に対し、日本国はどのように慰撫の意思を表明したのでしょうか?
「なぜお城の教会・・・」について述べるのが最後になりました。このお城のモデルは高知城です。そう!奥村多喜衛牧師が高知県出身で武家の出だからです。
しかし、お城が「高知」であることが主目的ではないのです。奥村からお城の教会建設計画を聞かされた人たちは、戦争や殺人を連想させるお城には反対が多かったそうです。しかし、彼は、聖書の「神こそ我が岩、我が救い、我が(やぐら)城」というメッセージを体現するものと説明、さらに「遠く故郷を離れて暮らす同胞
の心を癒すにはお城が一番ふさわしい」と説いたそうです。「マキキ聖城キリスト教会」は創立から28年経った1932に献堂されたのです。
奥村多喜衛は1937年牧師を引退した後も精力的に慈善活動を続け、1951年大きな足跡を残して86歳で昇天しました。叙勲や受賞は一切受け付けない頑固さを貫いた生涯だったそうです。『楽園ハワイ』でノーテンキに過ごす私たちも偉人奥村多喜衛から学ぶものの多かったレポートでした(了)
奥山 繁
ハワイには多くの人が足を運んでいるので「ホノルルに日本のお城があることを知っている」と云う人が多いと思います。ところが「知らない」と云う人も結構いるのです。オアフはあまり大きくない島であるとはいえ、ホノルルを離れたローカル地域に行けば目に触れることも少ないのですが、このお城はホノルルの街中に聳え立っているのです。それも、アラモアナ・ショッピング・センターに程近い場所に・・・
実は、私もロングスティを始めた数年前に街を歩いていて気付きました。そのときには、 お寺や神社もあるハワイなのだから、お城があってもおかしくはない。しかし待てよ!それにしてもお城というのは単に珍しいというだけでなく何か曰くがあるのかも知れない、と思いました。そして近づいてよく見るとそれが、なんとキリスト教会なのです。天守閣の下方白壁には十(クロス)の字が掲示され、入口には「マキキ聖城キリスト教会」とありました。
その後しばらくしてこのお城に行く機会がやってきました。知人の友人がこの教会で牧師をしていて、信者には日本人が多く在ハワイ日系人だけでなく来布日本人旅行者やロングステイヤーも歓迎。もちろん非クリスチャンも・・・で楽しく、友人づくりに良いのでは、と云う話です。持ち前の「何でも知ってやろう」精神を刺激された私は、早速妻と日曜礼拝に出かけて行きました。
クリスチャンでない私たちは、礼拝など云ってもどのように振舞ったらよいのか皆目見当がつきませんでしたが、教会では受付で歓迎のレイをかけられ、礼拝堂では皆さんに紹介されるなど、とてもフレンドリーな対応にすっかり打ち解けました。その後も居心地がよいので何回か通ううちに顔見知りの人も増え、ロングスティ・ライフの充実に役立っています。
一方、肝心の「お城の由来」については、接した人たちから聞きだすチャンスがなく少
々焦りだしていました。ところが、そのことを見透かしたイエス様が機会を作ってくださったかのように、黒田牧師と話すチャンスが訪れました。今年元旦のイベント「餅つき会」に参加して、無心にはしゃぐ子供たちに混じって雑談を交わすなか、牧師に「お城のこと」を質問したところ、牧師は「よく聞いてくれました」とばかり丁寧に話を聞かせてくれたのです。
以下は牧師から聞いた話と、借りた本を基に記しますが、一見お金持ちが道楽か酔狂で造ったのではないかと思ってしまいそうなこのお城には、尊い歴史が秘められていたのです。
マキキ聖城キリスト教会は、1904年に奥村多喜衛という牧師が創設しました。当時の名前は「マキキ教会」といいました。
奥村多喜衛は1865(慶応元)年、土佐藩士奥村又十郎任道の長男として高知県安芸郡に生まれました。藩主山内容堂の諮問役で漢学者の父から幼い頃から武士の教育を受けて育ちました。自由民権運動家で後に衆議院議長となる片岡健吉が親戚であったことなどから多喜衛は政治思想とキリスト教の両面で大きな影響を受け、1888年23歳で大阪教会で洗礼を受けました。1890年同志社神学校に入学、在学中からハワイの日本人伝道
の必要性を聞き、4年後卒業するとすぐに単身でハワイに渡りました。
ハワイでは、キリスト教の牧師として伝道に専念するかたわら、日本人社会の問題についていつも目を向け関係者と粘り強く話し合い行動して行ったのです。充分な教育を受けていない日本人移民の子供たちのために着任翌年には日本人幼稚園を開設、1896年には日本人小学校を開設しました。また同年に遠隔地や他島の子弟たちのために寄宿舎「奥村ホーム」を開設します。ハワイ日系人で初めてエール大学大学院に進んだのも奥村ホーム1期生であった等ハワイ社会に貢献する人材を多く排出しました。
さらに奥村は、1898年頃から日本人暗黒街移転運動にも乗り出します。ホノルルにペストが流行し、市街を焼き払おうとした策が裏目に出て、折からの強風に煽られ大火となり多くの人が命と家を失うという事件が起きましたが、その際日本人病院の必要性に気付き、現在のクアニキ病院の前身日本人慈善病院を開設しました。
また奥村は、1898年ハワイがアメリカの属領になったことから日本の文部省の教育方針から忠君愛国的教育を廃し、アメリカ公立学校の補修校的日本語教育に変換するためホノルル日本人小学校を布哇中央学院と改称します。また、天長節など日本の祝日には日本人の子供だけがハワイの公立学校を休み、日本人学校で拝賀式などに参加していたことなどを改め「ハワイの日系人はアメリカ人である」という行動をしなければアメリカにおけ
る対日感情が悪くなることを日本人社会に訴えます。
奥村は「売国奴」「非国民」の汚名を着せられつつも「排日予防運動」に奔走します。
(1) アメリカの生活習慣に同化する。
(2)市民権を取り忠実なアメリカ市民となる。
の2点を認める人たちから署名を集めるため各層の人々と会い全島をまわります。そして、それを大統領や議員に送付して排日運動の沈静化に努めました。やがて奥村の活動は成果を挙げはじめますが、彼は運動の第2弾として「日系市民会議」という組織をつくり2世の養成に力を注ぎます。
そうした中、あの真珠湾の奇襲攻撃に始まる第2次世界大戦では、ハワイにいる日本人、日系2世はアメリカの敵国民として扱われて辛酸を舐めます。ここでも奥村は「ハワイの日本人・日系人はアメリカ人」であることをアメリカ政府・軍に説き、日本人全員のアメリカ本土収容所送りを思いとどまらせます。
他方、日系2世たちは「アメリカ市民」であることの証を示すべく積極的に志願兵となり第100大隊や第442部隊の兵士としてヨーロッパ戦線で勇敢に戦いました。特にイタリアのカシノの激戦では出兵1300名中生存者275名だったということです。このように最大の犠牲者を出しながら大きな勲功を挙げたことで、やがてアメリカ全土で日系人が認められるようになり、本土収容の日系人の早期解放にも役立ったといわれています。
そして、その後ハワイの日系2世たちは、最高の武勲によって得た報奨金を元手にして上級学校へ進むなど、リーダーとなるべく努力した結果、現在の社会的地位の高い日系3世、4世へと続いているのです。このように見てくると、奥村多喜衛の長年の努力が無かったら、現在のハワイの日本人・日系人はアメリカの中でどのように見られ、どのように扱われていたでしょうか?
それにしても、奥村が苦闘していた時代に日本国は何をしていたのでしょうか?奥村が帰国するたびに渋沢栄一他の有力経済人は活動に理解を示し経済的支援をしていたようではありますが・・・
また、第2次世界大戦によってハワイの日本人が、日本人・日系人であるが故に舐めた辛
酸に対し、日本国はどのように慰撫の意思を表明したのでしょうか?
「なぜお城の教会・・・」について述べるのが最後になりました。このお城のモデルは高知城です。そう!奥村多喜衛牧師が高知県出身で武家の出だからです。
しかし、お城が「高知」であることが主目的ではないのです。奥村からお城の教会建設計画を聞かされた人たちは、戦争や殺人を連想させるお城には反対が多かったそうです。しかし、彼は、聖書の「神こそ我が岩、我が救い、我が(やぐら)城」というメッセージを体現するものと説明、さらに「遠く故郷を離れて暮らす同胞
の心を癒すにはお城が一番ふさわしい」と説いたそうです。「マキキ聖城キリスト教会」は創立から28年経った1932に献堂されたのです。
奥村多喜衛は1937年牧師を引退した後も精力的に慈善活動を続け、1951年大きな足跡を残して86歳で昇天しました。叙勲や受賞は一切受け付けない頑固さを貫いた生涯だったそうです。『楽園ハワイ』でノーテンキに過ごす私たちも偉人奥村多喜衛から学ぶものの多かったレポートでした(了)
奥山 繁

